同志社大学 田辺キャンパス ガイド

継体天皇が山城の国に最初に皇居を定められた「筒城の宮」」(つつきのみや)は、田辺キャンパスの正門を入ってすぐ右側の小高い丘の上に史跡があり、継体天皇「筒城の宮」跡の碑がある。

正門を入った所に建っている看板 不動谷と継体天皇の「筒城の宮」址 不動谷にあった大明神の碑

この不動谷に継体天皇の碑があるが、ここが本来の「筒城の宮」の場所ではない。
この付近という事である。場所については、諸説がありこの普賢寺谷の何処かであるのだが地名に「都谷」とある事からこの付近に碑が建てられている。
継体天皇の由緒を記した説明板 有名な継体天皇の「筒城の宮」址の碑 筒木の宮碑を顕彰して建てられた説明板

継体天皇は「楠葉宮」からこの筒城(綴喜郡:現京田辺市)に都を移したところです。
 古事記・日本書紀や万葉集に歌われている「筒城の宮は継体天皇が皇居を定めたところであり、綴喜という地名の由来となっています。
不動明王の古跡碑


綴喜(つづき)とは、継体天皇の都、筒城の宮があったところである。20年も大和に入ることが出来なかった継体天皇は、河内の樟葉の宮からここに移って来た。つまり、大和の目と鼻の先まで歩を進めた訳である。付近には多々羅(たたら)という集落があり鍛冶金工を思わせるが、継体天皇の第4皇子29代欽明天皇の時に来朝した百済系の渡来人が、金多々利(こがねのたたり)・金平居(こがねのおけ)を献上して、多々良公の姓を賜ったことに由来すると伝わっている。